マンションの肖像

1.〜これまでの30年、これからの30年〜

 

 全国の管理組合団体の会員が時期と伴に増減することは承知の事実だろうが、時に熱を帯びたように組合の参加率が上昇するときがある。筆者が関わった中で、このような状況を呈したのは、首都圏では『マンションの建替え問題』が俎上に上り始めた頃で、ほぼ90年代のことである。究極の管理=建替え、至高の管理=マンションの計画的修繕(改修)を超えて、やがては迎えなければならない建て替えの時期。かつてはUR(前身は、昭和30年設立の日本住宅公団)分譲の大型管理組合が多く加盟する団体では、その初期に近い分譲住宅団地の抱える課題は、この一点に集約されつつあったのだろう。多くの管理組合が参加し、議論し、運動としての活動が展開されてきたように思う。「これまでの30年」では、マンションの発祥、住宅形式としては団地型を中心に、その足跡を管理費の充実、駐車場、建替え検討等を通して各カテゴリー毎に、現在から過去を辿ってみたい。そして、究極の管理を詳らかにしたいと思う。また「これからの30年」については、これまで培った経験を土台に、どのような展開を示すのか。「管理」をkeywordに取材を通して読者の皆様に報告していきたいと考える。
 明治学院大学法学部兼任講師・本紙客員編集委員:竹田智志

 

分譲マンション開闢

 さて、分譲マンションなる建物は、いつ頃お目見えしてきたのだろうか。簡単なようで簡単ではない命題だ。これはただ事実の発見だろうから、書き換えもなければ改竄もできない。本紙「新マンション事情」の松本恭治先生は、1925年発足の同潤会が結果的にマンションのスタートラインだと指摘する。筆者としてもその通りだと思うしだいだが…。
 4月は大学での講義がスタートする時期である。基本的には民法という科目を担当するが、「総則」の講義の早い段階で、意思表示について説明しなければならない。その中で、自然債務につき、かの「カフェー丸玉事件」(大判昭10・4・25新聞3835−5頁)に触れなければならないのだが、カフェーとはどんな処か、女給さんとはどんな仕事か。今の学生に説明するのはちょっと厄介だ。


 四半世紀も前になるが、90年代に関西地区を中心にマンション管理を担ってきた故・先田正弘氏(「永住できるマンション」日経BP社の著者)との電話のやり取りで、ふと日本のマンションのスタートについて話が弾んだことがあった。法学の分野では、すでに紀元前にあって、rome法に階層所有権と似た記録があり、既にこの時点でマンションは成立していたとする説もある。
話を日本に戻そう。先田氏曰く「マンションの発祥の地は実は大阪や。今度来た時、事務所のそばだから探しに行けばいい」。そんな建物が今も残っているのならぜひ見てみたい。筆者としては、小躍りしそうな気持を抱いたものである。
それから数カ月を経て大阪への出張がかなった。取材の最後に日本一古いマンションの話を持ち出すと、本町、船場、心斎橋と御堂筋を南下すると、やがて難波に行きつく。そこから道頓堀川を少し下った辺りが、日本のマンション第1号があった場所ということになるらしいが、「最近は相当変わっただろうからな」と一言。にわかに暗雲が立ち込めた。
話の筋はこうである。当時、道頓堀で働く女給さんたちの住まいは、この辺に集中していた。そこで人気の高い女給さんは、雇い主から居室を与えられ、次に人気の高い方は賃貸借。新人は、一居室に大勢で住むということだったらしい。カメラ片手に散策はしたものの、街全体が様変わりしていて、それらしい建物は発見できずじまい。「相当変わった」が耳の奥で木霊した。そして自然債務の説明のたびに、国内初の分譲マンションの影がちらつく。
文献等で調査して見ると、民間分譲は、58年の四谷コーポラス(新宿区、28戸)。公共の分譲は、53年の宮益坂アパート(渋谷区、107戸)。因みに、URの分譲第1号は、56年の稲毛住宅団地(千葉市、240戸)である。次回は、これら住宅の今を概観する。


 「新マンション事情」は、松本恭治氏が体調不良のため、しばらく休載します。その間、弊紙委員が担当します。(つづく)


集合住宅管理新聞「アメニティ」428号(2018年5月)掲載